栄光と病魔の狭間で・・・

池宮  秀湖

 昭和を代表する俳優であり、歌手でもあった石原裕次郎氏は、52才という若さで天国へと旅立っていった。
 兄、石原慎太郎氏が『太陽の季節』で芥川賞受賞。その映画化に際し、弟裕次郎を俳優としてデビューさせる。 主役ではなかったが、その存在感とカリスマ性は、あっという間に彼の才能を開花させ、 大スターとして君臨することになる。 多くのファンに楽しみと夢と希望を与えてくれたが、『タフガイ』と言われながらも、 次から次へと襲いかかる怪我・事故・病魔との闘いは、想像を絶するものがあったに違いない。
 彼の短い生涯を、栄光と辛酸の視点から振り返ってみたいと思う。
(以降、登場人物の敬称は略させていただきました。)

解 命

石原裕次郎の命造

 癸日子月水旺癸分野生の「建禄格」。天干変化なく、地支は酉辰合去し、移動・接近により、 年干の甲木から制される年支の戌土は月干丙より生じられ、水旺の子水を制する。 一方、年干の傷官甲木は日干に無情ですが、子水を通じての食傷生財、財生官殺となる。 流通にやや難はあるが、甲木は月干に丙近貼して、湿木とならず、月干死令の丙を生じる。 調候としての丙は、天干に二丙あって戌支に有気であることから、やや太過。 二丙に挟まれた日干は、『滴天髓』いうところの「癸水至弱。逹于天津」であり、陰の純なるもので、 その性は大変弱いが、天に達するほど遠々長流といわれ、静かに万物を育成する。 また「不愁火土」。“陰干弱きを恐れず”の干の特性ゆえに、火土の生尅をそれほど恐れることもなく、 子月水旺生であり、微力ながらも戌中に印の辛金もあるので、戌中で湿土生金、金生水して、 不強不弱というよりも、やや強となる。
 しかし、二丙透出し、甲木の火源あり、日干癸水は、「癸水丙困」がせいぜいで、 これ以上丙火が強化されると、癸水では制火不能となり、丙火は忌となる恐れがある。 また、接近した戌中辛金は二丙に制金され、印としての作用は微力となる憂いもある。 さらに、運歳において、食傷と印のあり様により、日干の強弱が微妙に変化する、といった危うさを秘めている。 用神は一応甲と取り、喜神木火、忌神金水、閑神土とする。
 運歳にて、酉辰合去が、子・巳・申・酉・戌で解合されると、日支酉中の庚辛金が水源となるとともに、 辰支は時干丙火を晦火晦光、納火することにより、日干は強に変化する。 さらに、木火土が太過すると、日干弱となり、喜神金水、忌神木火土となる、大変難解な命と言える。
 よって、「源半清半濁」の命である。

 裕次郎は、芸能界のみならず“俳優は男子一生の仕事にあらず”と言って、事業家になることを夢みていた。 しかし、原局の示す通りの性情面が大きく作用し、怪我・事故・病気の連続であったことから、 彼の人生は運歳の経過の中で、結果として、栄光と苦渋、そして壮絶な死。 といった吉凶相反する事象となって現れたものと思われる。
 以上により、性情、適職、病源を主に六親を含めて看ていくことにする。

性 情

 三陽一陰で陽的、水旺の生まれであるが、日干癸水の干の特性から、外見に似合わず純であり、想像もつかぬほど繊細である。
(子)の小心なところもあって、照れ屋。癸水のやさしさを内に秘め、淋しがりやでもある。 しかし、日干を挟み二丙が透出し、戌に有気。この二丙の性情面は派手で虚栄心が強く、親分肌のところもあるが、 短気で性急(あわて者)、運動神経が良好であるだけに、却って反射的行動に出てしまう、という欠点がある。 さらに、傷官甲木の位置よろしからず、集中力に欠ける。日干が弱化する流年には、「年上傷官」ともなり、 これが 怪我・事故の一大原因と考えられる。また、甲木無根、無情ゆえに、 自制心を失うと暴走する烈しいところもあるが、持久力には欠ける。
(戌)理智潔癖、責任感強く、古風律儀な面あり、適度に巧まざる愛嬌がある。 品よき節度があり、人情厚い人格者、強気と弱気が共存する。
(酉)の先見の明あり、行動力がある。色彩感覚に優れ、おしゃれ。ムード派であるが、 性急(あわて者)、理解力抜群で、義務感強く、義理人情に厚く、世話好き。色情性は強い。
(辰)感性強く感激家、正義のために損をすることもある。 ロマンチストで直情的な面もある。けんか早いが、長くこだわらない。しかし、束縛されるのを極端に嫌い、自由を求める。 マニヤックで芸術的才があり、個性的で人の上に立つ。
 以上は基本的性情面ですが、生まれた時からの家庭環境に始まり、太平洋戦争、そして終戦。 当時の政治、経済、文化、風俗、地域の環境、といった時代的背景の中から、 運歳の流れとともに、役割り性格が形成され、彼の才能と相まって、男性的魅力を備えた、 輝くばかりの栄光にふさわしい人間像へと高まり、多くのファンのこころの中に生き続けることになる。

適 職

 日干癸水子月水旺の生で、水智あり、甲木無根ではあるが、子水を通じて、食傷生財、調候は二丙透出してやや太過するも、 水、木の芸術、文化、丙丁火は文明の象でもあり、芸術関連業、独立自営業。 さらに癸水の聴力・音感、二丙は音声、言語明瞭、肺活量も十分である。
 戌支の事業、不動産、法律、芸術、宗教。 酉支の芸能、社交、闘技、辰支の文学、芸術、外交、企画、弁護士、自由業等々。
 第二運13才からの木旺運は、年干甲木が、寅支に通根することにより、食傷生財。 才能能力発揮が必須な俳優、歌手、司会はまさに適職中の適職と言える。
 しかし、彼は将来、事業家となることを目指していたが、 一見、適職であるように思われるが、性情面と運程から不適である。

病 源

金の病=呼吸器系(肺、咽頭)、胸腺、腸、骨、歯、さらに金は骨折、捻挫、脱臼、怪我、がん、 腫瘍、また金は胸部で、特に辛金は胸腺でもあり、免疫系に大きく作用する。
水の病=腎臓、泌尿器、血液、骨、耳、毛髪、目、血液、免疫(癸)。
木の病=肝臓、脳、神経、目、免疫(甲)。
火の病=心臓、口唇、言語、気血、血圧、血液(水との関連性あり)。
土の病=消化器系、胃、皮膚、舌、脂肪。 
 以上の視点によると、彼の怪我・病気は、性情面が大きく作用し、繊細さと、小心さを人に見せまいとする性情が、 酒に依存するようになり、一日にビール十本以上、他、大量の飲酒を続けていた。 金水の病気と、木火の病気が、運歳の経過の中で時として怪我、事故、そして病気となって現れている。 

六 親

  • 父、財の丙火は、日干を挟んで戌支に有気。
     裕次郎を大変可愛がっていた。しかし溺愛ということではなく、 男らしい人間に育ってほしいとの願いから、かなり厳しく接していたようである。
  • 母、印の庚辛金は、酉辰合去するも、戌支接近により、戌中辛金有情となる。 酉辰解合すると、印が強化されるものの、本造のように、日干の強弱が常に変化する命は、 母印が、陰になり日向となって、支えてくれている。二人の男子の性格をよく理解していて、 夫の死後、立派な社会人となるよう指導した良妻、賢母であった。
  • 兄弟、比劫の壬癸水が子中にあるので、一人か二人、兄弟仲は人がうらやむ程の仲良しで、 裕次郎の命運が弱化する第二、第三運は、兄慎太郎の大運が水旺運を巡り、弟の生命エネルギーを救応している。 弟思いの兄が、生涯を通じて力になってくれている。
  • 妻、財の丙火は日干を挟んで戌支に有気で、配偶支酉が去となっても、用神は喜の甲木である。 また、妻命の大運は、本命が日干弱となる運歳には、よく救応する。妻の内助の功、多大である。
  • 子女、官殺は年支戌にあり、日干癸水、水旺の子に通根するので、ホルモンバランス良好であり、 調候丙、やや太過するも死令であり、戌支に洩らすので、子女縁は良好であるはず。 しかし、兄慎太郎の言によれば、26才庚子年一月、志賀スキー場での重度の右足骨折の治療のため、 長期にわたる過度のレントゲン撮影のせいで、精子製造機能が破壊されたのでは、とのことである。

運 程

妻の命造

(年齢は満年齢、丸は疾病)
 年月干喜神の木火、兄一人ある中流以上の裕福な家庭に生まれる。

  • 0才乙亥年、日干強化されるも、ほぼ順調に育つ。
  • 1才丙子年、子辰水局半会の情あって、酉辰解合。二子一癸、三丙の水火尅戦に見えるが、 日干癸水は三丙火を尅せず、水火共に忌の流年。風邪を引くと発熱する。といった熱に弱い体質であったと思われる。


第一運 3才~13才 丁丑
 天干は丁癸尅、日干にて不去、地支は丑子合、丑酉金局半会の情不専により、酉辰合去のまま。 水旺四年は、水源深い丑支に有気で水涸れることなく、土旺六年は湿土生金、金生水となり、共に日干強となる。 しかし、大運支丑中癸水は水源深く、原局甲木を滋木培木し、甲木傷官と二丙財は有力となる。 この大運は忌とは言い難く、喜忌参半の大運。
  • 3才戊寅年、天干地支共に変化なく、酉辰合去のまま。戊土の制水と寅が納水し、 日干弱となるも一応五行具備。この年、三年保育の幼稚園に入園したが、三日目に突然幼稚園から姿を消した。 父は叱ってでも通わせるべきであると言ったが、母は裕次郎の言い分も、 それなりに筋が通っているから、と子供の思うままにさせた。 その後の彼は、自分の意志を通す生き方をするようになったと思われる。
  • 6才辛巳年、天干変化なく、地支は巳酉丑金局全の情にて酉辰解合。 日干強化される忌の流年。小学校一年生、小樽にて父の買ってくれた自転車に乗り、 急な坂道で加速が付き転倒。十メートル先の草むらに頭から突っ込み、膝と腕に大きな傷を負う。
  • 7才壬午年、天干壬丁合、壬丙尅の情不専、地支は午子冲、午酉蔵干の尅の情不専にて、酉辰合去のまま。 水火共に強化されるも、通関の甲木位置悪く無根にて、水火尅戦の様相となる忌の流年。 小学校二年生の時、父が重役に昇進し、東京本社勤務となったため、小樽から逗子市桜山に転居。 以降、逗子で小・中学校、青年期を送る。
    逗子に転居した彼は、模型飛行機作りに夢中になっていたが、兄弟二人で父にせがんで、 当時二万五千円もするヨットを買ってもらう、といった望外な遊び道具を手にした。
    当時の湘南の海を背景に青春時代を過ごした少年にとって、それがどんなに大きな意味を持ったのか、 そしてそれが兄弟の絆の在り方を形作っていったものと思われる。
第二運 13才~23才 戊寅
 天干は戊癸合、戊甲尅の情不専により変化なく、地支も酉辰合去のまま。 大運干支戊寅は殺印相生、木火土と生じ、戊土は戌支にも通根し、日干および月支子水を制し、 寅支は原局甲の根となって、食傷と財と官殺が共に有力。やはり日干は弱となり、 流年により喜忌参半の傾向性ある大運。
  • 16才辛卯年、天干変化なく、地支は寅卯辰の情あるも、卯酉の冲あって東方不成、酉辰解合するも、 日干は食傷の寅卯に洩らし、寅卯はまた二丙を生じ、日支酉と流年干辛金は、 二丙に尅金されて印としての作用を発揮できず、日干さらに弱となる忌の流年。 二年生の時、バスケットボール練習中に金である左足の膝に大怪我をする。
    この年、昭和二十六年十月十六日、父、本社での勤務中に脳溢血で急死する。51才であった。 父は父の命運によるとは言え、財多身弱の年であり、父を尊敬し大好きだった彼は、 相次ぐ不幸に、酒、たばこ、麻雀、ヨット、喧嘩、拳闘部への入部。
  • 18才癸巳年、酉辰解合。日干強化される喜の流年。慶應大学法学部に入学する。
  • 19才甲午年、寅午戌火局全と、午子冲と午酉蔵干の尅にて情不専、日干弱となる忌の流年。 さらに自暴自棄となり、家から、金品を持ち出して換金し、銀座などへ繰り出しては遊行三昧、 銀座の女性に溺れる日々に、石原家の財は底をつくといった、放蕩生活を送っていたといわれている。
    兄、慎太郎は、こうした弟の生活に、弟は弟なりのどうにもやり切れない思いがあっての行動であり、仕方がないと諦めていた。
  • 20才乙未年、天干地支共に変化なく、日干弱となる。兄、慎太郎は『太陽の季節』で芥川賞を受賞。 作家として衝撃的なデビューを果たし、一世を風靡する。折しもこの『太陽の季節』が、日活で映画化を促されていた。 慎太郎は、無職の裕次郎を出演させることを条件に、映画化を承諾し、弟を俳優デビューさせる。
  • 21才丙申年、天干変化なく、支は申寅冲、申子水局半会の情あるも、申酉戌西方全にて、 酉辰解合し、子・寅・辰は個有の支となる。三丙が西方全を制するも、大運干戊土が通関となって制金不及。 西方の金は寅中甲木を尅し、幼少期より肝臓は悪かった上に、多量の飲酒により、黄疸が出る。
  • この年、『太陽の季節』に出演し、脇役ではあったが、ダイナミックな存在感で注目される。 続いて、『狂った果実』、後に夫人となった北原三枝さんとの共演、他、立て続けに六本の映画に出演することになり、 以降、俳優、歌手、声優、司会者、モデルといった芸能界での道を走り続けることになる。
    第二、三運の戊寅、己卯は、日干弱となり、彼にとって2才歳上の兄慎太郎は、辛亥大運から壬子大運へと巡る。 兄の生命エネルギーの救応は、多大であり、栄光への切っ掛けとなった大きな転換の年でもあった。
  • 22才丁酉年、天干変化なく、地支は酉辰解合、全支個有の支となり、日干強化されるも、五行具備。 仕事面では『嵐を呼ぶ男』他七本の映画に出演し、スター街道をまっしぐらに走り続けるが、 原局二丙の財が印を尅し、無免許運転によって、金である右足打撲。 また、ロケ中にデッキチェアに手を挟み左手薬指(金)を負傷する。
第三運 23才~33才 己卯
 天干は己甲合、己癸尅の情不専、地支は卯戌合、卯酉冲の情不専により酉辰合去のまま。 木旺運にて、食傷有力となり、日干やや弱となる。流年により、喜忌参半の傾向性ある大運。
  • 23才戊戌年、天干変化なく、地支は戌辰冲、戌卯合の情不専で酉辰合去のまま。 水源となる辛金は日干を生じ、流年干支戊戌にて土多ではあるものの、二戌中辛金は、何とか通関する。 『日のあたる坂道』他六本の映画に出演する。 24才己亥年、天干変化なく酉辰合去のまま。25才庚子年、天干変化なく、子辰水局半会の情あって、酉辰解合。 日干強となって食傷生財によく耐え、勢いに乗じて十六本の映画に出演し、大スターへの道を邁進する。
  • 25才庚子年、天干変化なく、地支は子辰水局半会の情あって、酉辰解合。 流年干庚は原局二丙に尅金されるも、大運干己土が通関となって生金し、酉支にも通根する。 庚金の根となる酉は酉卯の冲の情重く、印、比劫の流年で、日干強化される。比劫の忌象として、 自信過剰と注意散漫となる忌の流年。一月二十四日、志賀スキー場でスキーヤーと衝突し、右足首粉砕複雑骨折(金)。 全治8ヶ月の大怪我をする。
    「この時、手術をすれば脚に傷が残るということで、手術をせず長期にわたって、 苦痛と闘いながら、脚に重りを付けて、牽引し、骨をくっつけるといった半年に及ぶ長い治療を続けた。 その治療の推移を間断なく調べるための脚部への過多なレントゲン撮影のせいで、精子製造機能は破壊されてしまったのか、 せっかく念願の相手との結婚を果たしたのに、子供を持てぬ運命となった。」と兄慎太郎の著『弟』の文中には、このように述べられている。
  • 26才辛丑年。天干地支共に変化なし。日干やや強となる流年。 一月二十四日の事故の後遺症で、十二月二十四日、右太股腫瘍性膿瘍の手術のため、また入院。
  • 27才壬寅年、天干変化なく、地支は寅卯辰東方と、卯酉冲にて、東方不成、酉辰解合、全支個有の支。 日干癸水は、壬と子水あって藤蘿繋甲的となり、日干不強不弱となってよく五行流通する喜の流年。 『銀座の恋の物語』『夜霧のブルース』など主題歌もヒットして、巨額の興行収入を上げる。
  • 同年、12月(壬子月)28日(庚子日)、自身の誕生日に、「石原プロモーション」(株式会社)を設立し、 兄慎太郎も非常勤役員として加わった。作品は日活の配給の形をとったが、「石原プロ」設立は裕次郎にとっての賭けであった。
    当時、三船敏郎も半年前の7月に「三船プロダクション」を設立していた。
    第一回作品は裕次郎主演で『太平洋ひとりぼっち』、ヨットで太平洋を横断旅行した堀江謙一青年の壮挙を題材に映画化された。
  • 28才癸卯年、天干地支共に変化なし。酉辰合去のまま。「五社協定」からの圧力はあったが、10月、結局裕次郎の育った日活館で封切られ、第十八回芸術祭賞を受賞した。 ※スターが独立してプロダクションを設立されては、自社の経営が立ちゆかなくなることを恐れ、 東宝、松竹、大映、東映、日活の間で昭和37年「五社協定」を結び、その会社が育てた俳優は引き抜かないという協定であった。
  • 29才甲辰年、天干変化なく、地支は酉辰合去のまま。食傷の木やや太過する忌の流年。 ハワイでヨット乗船中に右瞼(木)を怪我し十一針縫う。
  • 『太平洋ひとりぼっち』で第十四回ブルーリボン賞・企画賞受賞。
  • 30才乙巳年、天干地支共に変化なく、酉辰合去のまま。さらに日干弱となる忌の流年。
    九月から十一月まで『芸能生活十周年記念・全国縦断リサイタル』。 北海道から九州までの全国縦断連続公演は史上初であった。
  • この年、『黒部の太陽』の映画化権を獲得する。石原プロダクション第二回目の作品は、 三船敏郎との共演による『黒部の太陽』であったが、様々な圧力がかかり、 「五社協定」を敵に回して果たして制作できるかどうか、裕次郎は崖っぷちに立たされていた。
    黒沢明監督に育てられた三船敏郎は、大恩ある東宝に説得されて、電話で出演を断ってきた。裕次郎はその電話に衝撃を受けた。 心配して慎太郎が駆けつけた。このまま強行すべきか、それとも撤退すべきか・・・・・。 やがて、まき子夫人が、ポツリと言った。「裕ちゃん、私は、御飯とみそ汁を食べられたら、それでいいのよ。」 裕次郎は夫人の一言で、強行突破する決心をした。
    裕次郎は慎太郎の前で泣いた。大人になってから初めて見る弟の涙であった。 慎太郎は、意を決し、関西電力の常務に事情を打ち明け提案した。
    「五社が頑なに妨害を続けるならば、関西電力以下、黒部に参加した日本の代表的なデベロッパーで、 フリーブッキングの映画館と上映装置のある各地の公共施設を半年間契約して押さえ、 完成した映画の配給をおこなってもらえませんか。」
    黒部トンネルの完遂という大事業は、鹿島建設だけではなく、 それに勝るとも劣らぬ大成建設、間組、熊谷組、その他、十指に余る日本の代表的なデベロッパーが参加し、 さらに関電という関西財界の雄がその主宰者となっていた。
    彼らにすれば、自らが行った大事業の記録映画に社員を含めた関係者を動員することは、 たやすいことであり、胸を叩いて提案を受け入れてくれた。これは、「五社協定」に対する、慎太郎の居直りであった。
  • 31才丙午年、四正揃い全支個有の支。日干弱となる忌の流年。「株式会社石原音楽出版社」設立。
  • 32才丁未年、丁癸尅、酉辰合去のまま。火土が強化され、食傷生財生官殺となり、さらに日干弱となる忌の流年。
    『黒部の太陽』は石原プロ、三船プロの共同制作で、九月一日から、愛知県豊川市田町、 熊谷組の豊川工場で二億円のセットを組んで続けられていた。 撮影中に大事故が起こった。午後七時四十五分、予期せぬ濁流が押し寄せ、裕次郎は、丸太で体のあちこちをぶつけられながら、濁流の中を浮き沈みしていた。 裕次郎は近所の病院に担ぎ込まれ、右手親指骨折、左足打撲でギブスがはめられた。
    『黒部の太陽』は昭和四十三年二月十七日に日活で封切られ、大ヒットした。裕次郎映画史上、最高の八億に迫る配給収入をあげた。
    裕次郎と三船の五社協定への挑戦によって、『黒部の太陽』は、五社協定という強固な破砕帯を破ったのである。
第四運 33才~43才 庚辰
 天干は庚甲尅、庚丙尅の情不専、地支は辰戌冲、辰子水局半会、辰酉合の情不専により、酉辰合去のまま。 木旺四年、土旺六年共に土金水と日干を生じ強化する。しかし、月時干の二丙が庚金を制するので、喜忌参半の傾向性ある大運。
  • 33才戊申年、天干変化なく、申酉戌西方全にて、酉辰解合。二辰は湿土生金し、印太過となるが、 一応二丙が薬とはなるも、忌の流年。右足打撲(金)で全治一ヶ月の入院。
  • 一方、昭和四十二年度芸能人所得番付第一位(申告所得五〇〇〇万円)
  • 十月宝酒造「松竹梅」のCMに出演。以降出演料、年間一億円ともいわれている。 社長は生涯裕次郎を支援し続けることになる。
  • 34才己酉年、天干地支共に変化なく、酉辰合去のままで、戌、辰土が湿土生金して日干を強化するが、 原局甲木、丙火へと流通し、丙火生己土とよく五行流通する喜の流年。 『栄光への五〇〇〇キロ』も、さまざまな圧力がかかったが、兄慎太郎が日産との仲立ちをし、 日産グループの協力によって、この映画は、四十四年七月十五日松竹で封切られ、 六億円もの配収を上げる大ヒットとなった。石原プロ単独の収入としては、初めての快挙であり、 日本映画の数々の数字の記録を塗り替えた。
    『黒部の太陽』『栄光への五〇〇〇キロ』と立て続けの成功で、石原プロとして、やっていけると判断し、 最高の機材をを備え、石原プロの前途は洋々たるものに見えた。
  • 35才庚戌年、天干地支共に変化なし。天干の二庚は二丙火より制され、 地支は二戌一辰土が子水を制する。 前年に比べて、五行流通遙かに劣る忌の流年。石原プロのプロデューサーの思い上がりから、 ハリウッドの大物スター、リチャード・ウイドマークとの共演も果たせず、 『ある兵士の賭け』は監督更迭など、制作方針混乱のまま大金を投じたが、興行的に失敗。 五億八千万円もの借金が残される。さらに『エベレスト大滑降』公開トラブルから興行途中で打ち切りとなる。 立て続けの興行不振により、石原プロは経済的危機に陥る。
  • 36才辛亥年、天干地支共に変化なく、酉辰合去のまま。金水と生じる忌の流年。 前年庚戌年の石原プロ倒産の危機の心労(木)と高校時代に患った軽い胸部疾患(金)がここ数年の過労で、 急性肺炎から、肺結核となり、熱海赤十字病院に6ヶ月入院する。
  • 石原プロ倒産の危機回避のため、「株式会社アイ・ピー・エフ」設立。 (人材・機材の貸し出し・CM・番組制作の請負を行う)。
  • 37才壬子年、天干変化なく、子子辰辰水局半会以上で酉辰解合。日干強となる忌の流年。 『太陽にほえろ!』第一回放映、東宝制作、日本テレビ放映。 この番組は、七一八話、なんと十四年四ヶ月の長寿番組となった(忌の流年であっても、上昇気流に乗っての結果である)。
  • 39才甲寅年、天干地支共に変化なく、食傷生財となる反面、甲木に強化された二丙が尅庚して、 自宅階段から転倒し、左肩打撲骨折(金)で入院。
  • 40才乙卯年、天干地支共に変化なく酉辰合去のまま。食傷生財するやや喜の流年。 昭和四十九年芸能人所得番付第一位(申告所得八〇〇〇万円)。
  • 歌手生活二十周年の功績で、第一七回、日本レコード大賞「特別賞」を受賞。
  • 一月六日『大都会ー闘いの日々』放映開始。石原プロ制作、日本テレビ放映。
第五運 43才~53才 辛巳
 天干は変化なく、地支は巳酉金局半会の情あって、酉辰解合、全支個有の支。辰支と印の酉金、 大運干辛金が、土金水と日干を生じ、日干一応強とはなるが、日干癸水は丙困できても制丙不能。 原局二丙透出し、大運火旺の巳中丙火は、原局子中の壬癸から制せられるも、 火旺運の巳は、二丙の根ともなり、火もまた太過して忌となる。 大運干死令の辛金は二丙より尅金され無力。忌の傾向性ある大運。
  • 43才戊午年、天干変化なく、地支は午戌火局半会、午子冲、午酉蔵干の尅にて、 冲尅合転々として、酉辰解合のままなるも、日干弱となる忌の流年。流年干戊土は戌、辰土に根あり、 二丙と巳、午火から生ぜられて子水を制し、二丙、巳、午火が酉金を制金・尅金する。 辰土の通関では不及。舌下潰瘍で入院し悪性(がん)と診断される。
  • 44才己未年、天干は己甲合、己癸尅情不専、支は酉辰解合のまま。 前年よりの忌象の後遺あるも、十月『西部警察』放映開始。石原プロ制作。テレビ朝日放映。
  • 大運火旺運にて、火土の忌象として舌下白板症と診断され手術。術後、患部に潰瘍ができ再手術。
  • 46才辛酉年、天干変化なく、地支は酉巳金局半会、酉辰合の情不専で、全支個有の支のまま。印太過し、 金水の忌強く表れ、背中と胸に激痛が走り椎間板ヘルニアと疑われる。そして四月、生還率3%の「解離性大動脈瘤」と診断され、大手術を受ける。
    最高の医術による治療と、延べ一万二千人のファンの方が、慶応病院の仮説テントにお見舞いに駆けつけ、 激励の手紙五千通、多くの人たちの必死の祈りと想念の力もあって、奇跡的に一命を取り止めたが、後、右耳が難聴となる。 退院後に首や腰の痛みは回復するが発熱が続く。ファンからの励ましの中で、夫人の献身的な看護と本人の努力によって徐々に回復していった。
  • 『太陽にほえろ!』四五九話。『西部警察』八九話から不在となる。十一月二十六日『太陽にほえろ!』セット撮影から復帰。
  • 一月三日、テレビ朝日特別番組、『新春快談男たちの詩 石原裕次郎VS渡哲也』に出演。
  • 一月十七日、復帰後初レコーディング『時間よお前は』ほか二曲。
  • 二月二日『西部警察』復帰。一二四話。
  • 48才癸亥年、天干変化なく、地支は亥巳冲により酉辰合去。日干強化される忌の流年。 四月二十日、テレビ朝日、水曜スペシャル『おめでとう!石原裕次郎と太陽の仲間たち!!石原プロ創立二十周年記念企画』放映。
  • 舌下潰瘍(舌がん)再発。
  • 49才甲子年、天干変化なく、地支は子辰水局半会の情あるも、全支個有の支のまま。 日干さらに強となり、甲木は火源となる忌の流年。 45才庚申、46才辛酉、47才壬戌、48才癸亥、49才甲子、50才乙丑年と一路忌の流年を巡り、 舌がんから、火源となる木の肝臓がんが発覚し、倦怠感と腰痛の末、原因不明の発熱があり、ハワイで療養生活を送る。
  • 『西部警察PartⅢ』特番(七十回)最終回放映。
  • 51才丙寅年、天干、地支共に変化なく、酉辰解合のまま。日干は食傷の木へ洩らし、 木は三丙を生ずることにより、丙火さらに太過し、木は火源となるのみ。 日干癸水は制丙火不能。体調不良で慶應病院に緊急入院。その後、血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎と公表される。
  • 六月五日『太陽にほえろ!』正式降板発表。
  • 十月十九日『太陽にほえろ!』最終回収録、自ら希望して、取調室の十五分にわたるシーンを、ノーカットのアドリブで演じる。
  • 療養先のハワイで静養。
  • 52才丁卯年、天干丁癸尅、丁辛尅の情不専、地支は卯戌合、卯酉冲の情不専により、酉辰解合のまま。 卯木は年干の根となるも、火旺運にてさらに財を強化、財多身弱の様相を呈し、慶應病院に入院。 前年より忌小と思われるが、前年の忌は医学の進歩により何とか延命されたものである。 カテーテル治療など医術のすべてと医師団による献身的な治療を行ったが、高熱のため、 ついに幻覚症状が現れ、昭和62年7月17日16時26分、肝細胞がんのためこの世を去る。 (丁卯年丁未月丁卯日戊申刻)享年52才。
  • 八月十一日、午後一時より、青山葬儀所において、石原プロとテイチクの合同葬儀が行われた。
  • 九月三日、第十三回日本テレビ音楽祭日本テレビ特別賞受賞。十二月第二十九回レコード大賞「特別賞」受賞。 第十八回日本歌謡大賞特別賞。第二十五回ゴールデン・アロー賞特別功労賞。毎日映画コンクール特別賞受賞。他、多くの賞を受賞している。
「今改めて思えば、結局私達兄弟の人生は超現実的としかいえない素晴らしい偶然の積み重ねの上にあったのだった。 時代の恩窮と言うこと一つにしても、とてもそうとしかいいようがない。
 私がいなければ彼はありはしなかったし、同じように、いやそれ以上に彼がいなければ私はありはしなかったのだ。」と、兄慎太郎は、著書『弟』の文中で、このように述べている。
  • 平成三年辛未年、七月二十日、北海道小樽に「石原裕次郎記念館」オープン。建築面積一〇九五坪。
 男の一生を裕次郎に賭けた、渡哲也、小林正彦、神田正輝、館ひろし、他、熱き男たちによって、 石原プロは社会への貢献を続け、裕次郎は伝説の人として、今なお生きている。

活 動

◇出演映画=『太陽の季節』『黒部の太陽』 『栄光への五〇〇〇キロ』他99本。
◇テレビドラマ=『太陽にほえろ』『大都会 ー闘いの日々』『西部警察』他14本。
◇代表曲=『銀座の恋の物語』『夜霧よ今夜 も有難う』他オリジナル曲350曲。
◇ラジオ番組=多数。
◆怪我・事故・病気=18回。


【 参考文献 】

  •  『裕さん、抱きしめたい』石原まき子著・主婦と生活社
  •  『弟』石原慎太郎著・幻冬舎文庫
  •  『石原裕次郎』大下英治著・勁文社
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