鮮烈!丙火墜つ!!-炎の画家ゴッホ

樋口  晃聡

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ

 偉大な栄光と讃美に包まれてゴッホの名は、今や世界美術界の共通語である。 彼の天才と偉大な業績を疑う者は、今日誰もいない。
 しかし、彼の短い生涯は、孤独と貧窮と苦悩の中で、激しい情熱と豊かな才能を焼きつくし、 遂に報いられることもなく、不遇の中で自らの生命を絶つ。

生時類推

ゴッホの命造
丙日の時柱 戊子、己丑、庚寅、辛卯、壬辰、癸巳、甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子
類推にあたってのポイント
① 兄弟は弟二人、妹三人。なかでも、すぐ下の弟テオをヴィンセントは最も愛し、テオもまた兄のために終始精神的、 物質的援助を惜しまなかった。
② 19才の時から死ぬまで、弟テオとの文通が続き、遺された書簡は、むしろ告白文学といってもよく、 強く豊かな表現力は天賦の文才が認められる。
③ 少年時代の性情は、他人から強制されたり規則ずくめのことに対して狂暴なほど反抗を示し、頑固、怒りやすく、 自分のカラに閉じこもる。長じてもその性情はあまり変わらなかったようである。
④ 宗教性がはげしく顕れる。
⑤ 大運壬子が28才時に交入し、それが原局とのかかわりにおいて、その後の10年間に大きく影響した。

(イ)
彼自身に経済力全くなかった。10年間にわたる生活費はすべて弟テオに頼ることになる。
(ロ)
晩年、精神病で苦しむことになる。日干丙火、水の官殺太過による被尅傷が考えられる。
(ハ)
画家としての天職を自ら確信し、勉強し、制作したのは、この10年間にであり、 後世を驚かすような絵を描いた期間は、精神病におびやかされながらの晩年の僅か三年ぐらいであった。
(ニ)
最後はピストルによる自殺である。

、類推

ポイント①②に視点をおきながら類推してみると、日干の劫財である丁火(文性)とそれを蔵する干支は、 甲午・乙未・丁酉・戊戌で、晩年の窮乏と悲惨な終焉(しゅうえん)に導くのは無理のようである。
庚寅・癸巳・丙申。庚寅は申寅冲去し、癸巳は巳申合去して、事実と適合しない。
丙申は日干を幇助し、大運支子と申申子の水局と子丑の合で情不専、財不弱であれほどの貧窮の悲哀を 彼に味わすことはなかったのではなかろうか。
ポイント③と④に視点をあてる。
時支の性情は、少年時代のそれと強くかかわりを持つ、とするとズバリ辰か亥である。
(イ)
壬辰。丙壬輔映とはならず、日干弱。大運壬子、申子辰の水局と子丑の合で情不専。 囚令といえども財あって、彼の実態とは適合しない。
(ロ)
己亥。始終よろしく日干また洩身、この洩身に耐えられるや否や。ここにゴッホの天才性が内包される。 しかし、これまた四柱に比劫の火なく無根。 大運壬子により亥子丑北方全となって水多木漂、水多金沈となる。日干丙火への尅傷甚だし。精神への圧迫。 また、月干透甲ではなく透るは陰木の乙、年干癸にて木旺といえど己土は制水不能で湿木となり、神経を刺激、 ノイローゼ程度ではすまず、狂気へとエスカレートする。
以上により、己亥が正解のように思われる。

原 局

ゴッホの命造

 日干丙火、相令なれど無根にして天干に比劫・印の幇助なく、 印木旺令にして月干に乙木透り近貼し日干を生扶するが、 水多にて木やや過湿の憂いあり。さらに、己土卑湿にて晦火の傷官、かつ制水の能なくただ洩身のみ。 年干癸水、丑土に坐して水源深く旺令の木を生扶する。また、日干の坐す申金、 時干己土より生じられるも、月支の卯木を制しつつ、壬水の水源となる。
 日干丙火、時干の己土に晦光されるも洩身、流通し土より始まれば、土金水木火土金水木と湿木の忌に終る。
 “丙火猛烈。欺霜侮雪”といえど四柱に一点の比劫なく、土金水と流通して、水の官殺強力。 頼むは月支卯中の陽干甲にて、用神甲、喜神は一応木火、忌神は土金。水強であり、この組織構造では水の官殺も忌神。
 大運南方に巡るを最も喜とするに、逆旋して北方から西方へ巡る。

運 程

 ヴィンセントが生まれたとき、寒村の一牧師として誠実で親しまれてはいたが、出世は望めそうもない 父親とその妻は、彼等の希望と夢と喜びのすべてをその子に託し、ヴィンセント=《勝利者》と名付けた。
 印月令を得て旺じ、過保護であったかもしれぬ。亥の性情強く出て、両親とも持て余し気味であった。
 しかし、大運甲寅の己巳年16才。この年、甲木が二己土を制し、日干は寅に有気、巳に有根となって、良好な気勢を彼にもたらす。寄宿学校を卒業し、 ハーグ市の画商グービル商会に就職してからの彼は、勤勉で責任感も強く、研究心もあって模範的な店員であった。
 三年遅れてやはり同じ商会のブラッセル支店に就職した弟テオと文通を始める。その文通は彼が死ぬまで続けられる のであるが、その初めての手紙には、同業種の仕事の先輩として兄として、励ましと、希望と、明るさが若い純粋な 魂を通じて、充溢している。この純粋な魂こそ彼の一生を貫いている丙火猛烈の燃焼である。
 働きが認められてロンドン支店に栄転するのであるが、その頃の五年間が、彼の人生における最も明るさと希望で充 実した年月であった。
 大運癸丑は18才時に巡ってくる。癸己尅去するが、弱い日干を丑土は晦火晦光し、己土から辛、辛から癸、そして原局の癸へと 順生して、原局の忌象をさらに増幅させ、太過する水により印の木も過湿となる、良好ならざる大運である。日干丙火耐えられず、凶意に翻弄される。 即ち激発、偏俠、離別、破財、病災、孤独、放浪、破乱である。

  • 甲戌年21才の時、ロンドンでの下宿の娘に失恋して、伝導師として炭坑へ赴く。貧しい炭坑ホリナージュで の伝導で、献身的な態度で神のめぐみを説き、生活の貧しさを慰め、病人を見舞、看護しながらデッサンを描いた。 しかし、常軌を免した伝導ぶりで解任され、生きる光りを絵画の中に求めていったのである。弟テオにあてた長い 痛ましい手紙の中でその強い決意を打明ける。テオの金銭的援助始まる。
  • 28才時に大運は癸丑から壬子に替わる。亥子丑北方の水旺運である。
    その年辛巳年。巳申合・子申水局半会、情不専。流年干辛金は天干の流通を良くするが、また水源ともなる。身心疲れ果て、 エッテンの両親の所に帰り画業に励む。ここでは、この地の風景と、大地の労働に励む農民、木こり、 それに農具をよく描いた。この頃の絵はまだ人物のポーズは固く、釣り合いも不十分である。しかし表現力は強く、 人々の苦しみや闘いの相がにじみ出ている。この夏、彼の家に滞在していた従姉ケイに求婚し拒否される。失意の時期。 家族との確執と決裂。ハーグヘ。
  • 壬午年29才、モーヴに師事するが決裂する。娼婦ジーンと同棲する。この淪落した子持ちの妊娠している不幸 な女を救ってやらねばならぬ、との宗教的意思による。この女性を描いたデッサンの中で有名なのが「悲しみ」という 素描の挿画である。凋んだ乳房をぶら下げた裸の女が草原の石に腰かけ、顔を両腕に埋めている。下には「この地上に 女が独り捨てられて絶望しているとは、どうしてそんなことになるのか」というミシュレの言葉が書かれている。 彼にしては例外的な観念的絵であるが、そこにまた宗教性を感じさせるものがある。一層貧乏になる中で描き続ける 。暗い調子の絵である。
  • 癸未年30才、テオの説得もありジーンと別れ、両親のもとに重病人となってたどり着く。丑未の冲は、亥子丑の 方により成立せず、また解けず。未丑冲で卯未木局半会不成。癸水また生木。
  • 甲申年31才、甲己合去、申は水勢を一層強める。隣家の老嬢とのロマンス。しかし女の自殺で悲劇に終わる。 不幸なこの恋愛事件は、彼から正常な生活をする希望を奪い、いよいよ絵画のみが、彼の生活の目標となる。家族との 不和。
  • 乙酉年32才、父急死。乙己尅去、酉丑金局半会は卯酉冲にて情不専であるが、卯酉冲の情重く父財を失う。この年、大作 「馬鈴薯をたべる人々」完成。その後も農民、織工、村の風景を描き続ける。色彩に対する進歩著し。「色はそれ自体 で何かを表現している」ことへの開眼。住民たちとのトラブル。環境の変化を求めてアントワープヘ。胃をこわし、 歯が次々と折れた。土、金無依。
  • 丙戌年33才、ルーベンスの絵画に強い興味を持つ。美術学校で修業するが、アカデミックな画一主義にあきたら ず突如パリヘ。ロートレック、ベルナール、ゴーガン、ピサロ、セザンヌと知り合う。印象派の明るい色彩から豊かな 啓示を受ける。日本の浮世絵・版画のくっきりした色の新鮮さと、正確で力強い線の純粋さ、微妙な遠近法に魅せられる。 丙火は壬水と尅となるが不去、卯戌合去するが「丙壬不離」の良好性が、画面に明るくなって顕れる。彼の芸術の一つの象徴ともい えるひまわりの花と、さらにもう一つの象徴でもある自画像がカンバスに現れる。
  • 丁亥年34才、亥は北方に加勢する。丁は壬と癸で情不専、丙火を扶助するに無力ではあるものの、丁火即ち文化、芸術の象。 印象派の絵から受けた影響を彼自身に適応させる。オランダ時代の暗く重苦しい明暗法を脱皮し、パレットの色彩は 徐々に明るさを取戻していく。そして太陽が輝き、色彩のすばらしい南仏に行くことを考えるようになる。
  • 戊子年35才、南仏のアルルで、彼はよみがえったのだ。子は水多過を助長するが、戊土が制水の薬となり、 結果として日干吐秀。彼の芸術は完全に成熟する。秀作が続々と生まれる。果樹園、跳橋、ひまわり、刈入れ等の題材など、 強烈な色彩と大胆なタッチで独自の境地を拓いている。黄と青は、今やヴィンセントの生命の色である。それは、 アルルの空と太陽の色の延長なのである。
     彼は以前からゴーガンと一緒に暮すことを望んでいたが、10月になってやっとそれが実現した。しかし、 気質や傾向の相反した二人の共同生活は深刻となった。12月24目(甲子月丁亥日)危機は遂に爆発し、 ゴッホは剃刀で突如ゴーガンに襲いかかろうとしたが果たさなかった。この愚かしい激情に自らを責めさい なんで狂気の如く自分の耳を切り落したのだ。狂気 ― 熱く激しくふき上ってくるものを、自分自身に向けたとき、 何故その対象は耳であったのか。耳……それは水の部位なのである。原局と大運壬子、亥子丑北方全に申は水源となり、 流年支子、日支申、時支また亥である。水流あふれ、旺木をも漂泛せしめん勢いで、日干丙火を尅傷するのである。 翌日、病院に運ばれて監禁される。
  • 己丑年36才、一旦退院するが、地域住民は彼を恐れ、市長に請願し再び病院に監禁してしまったのだ。 彼は病室をアトリエにして、不屈の製作を続ける。星と糸杉、病院の庭、窓外の風景など。筆触も内部世界の不安、 焦燥を反映して鋭い。……糸杉の緑と黒とは、デッサンに絡みつかれて身を捩じりながら果てしない天に向う…… そういう絵である。丑は北方をさらに強化し、己土は制水不能である。日干丙火は、渾身の力でそれに耐え、 画くことで生る証しを続けんとしているのだ。
    「麦畠を死の影が歩いて行くのが見える。少しも悲しい影ではない。死は純金の光を漲(みなぎ)らす太陽と一緒に、 白昼、己れの道を進んでゆく。人間とは、やがて刈りとられる麦かも知れぬ………。」と、テオに書き送っているこの 言葉!!
  • 庚寅年37才、この年彼にとって良いことが三つあった。テオに男児誕生、兄の名をとってヴィンセント・ ヴィレムと名付けられる。二つめは、彼の作品を論じた最初の記事《メルキュール・ド・フランス》に掲載される。 三つめは、彼の油絵がブラッセルの展覧会で四百フランで売れた。これは、彼の生存中の唯一の油絵の売却である。

 庚寅年、日干丙火は寅支に有気となり、寅は月支卯とともに太過する水を納水する気勢あるも、 庚金がさらに水源となって生水し、寅申冲の情も重く、木は湿木、漂木となるのみ。 長い発作が、悲惨な絶望の淵へ陥れる。この年「麦畠をわたる鳥」などの大作がある。 7月27目(癸未月己酉日)の午後、オーヴェルの丘で一通行人は、木に登っているヴィンセントの姿を見た。 彼が「とても駄目だ、とても駄目だ」と言っている声を聞いたという。彼はピストルで自分の心臓を狙ったが弾は 心臓を外れてしまった。
 翌々日(辛亥日)己丑刻、テオに看取られて死ぬ。冲天奔地のすさまじい水勢に、木は湿木となり、日干丙火は滅火。 孤弱の丙火遂に耐えられなかったのである。
 仮に、丙火日干原局で有根であったなら、位相これまた高く、画家として財と地位を伴った輝かしい生涯が待っていた であろう。しかし、強烈な燃えたぎる丙火を渇望する如き作品は生まれなかったであろう。
 以上ヴィンセントの生涯を追跡してみたのであるが、肝腎なことが解明されていない。弟テオのことである。 経済的、精神的支柱であったテオとは、兄弟以上の縁で結びついており、テオがいなかったら、 ヴィンセントの絵は存在しなかったに違いない。四柱八宇のどこにテオは潜んでいるのだろうか。 印木もきょうだいをあらわすが、違う。壬子大運、木は湿木・漂木となって、喜の作用を期待できない。 陰干弱きを恐れずであるが、陽干の丙火、無根無力、救いがたい状況にある。そこに、実存の比肩丙火のテオが幇け、 救援したのである。テオこそ、丙火であって、己土への洩秀を、さらに生財し、財の援助を月干にもたらした ―  ということに、命理の大きな、“きょうだい比劫の意がある”ことに、私は戦慄を感じるのだ。
 だからこそ、ヴィンセントが自殺した翌年(辛卯)、兄を喪ったテオは、精神錯乱のうちに死んでいったのだ。
 兄弟の墓はオーヴェルの小さな墓地にひっそりと並んでいる。
 弟テオの生年月日を挙げておきます。
 1857年5月1日生。


《参考文献》
  • 小林秀雄著『ゴッホ』人文書院
  • 嘉門安雄著『ゴッホの生涯』美術公論社