命理学とは

 清代に編纂された類書(百科事典)『古今図書集成』には、命理の始まりは、戦国時代(紀元前400年~ 200年頃)の蘭台御史(天子の秘書官)であった珞琭子にあるとされております。
珞琭子の後、董仲舒、東方朔、郭璞、李泌、等の「人名辞典」にもその名が上がるような、 政治家、文人の積み重ねによって徐々に発展し、十二世紀頃、徐子平に至って、命理が現在の形になっ たとされております。しかし、私は、徐子平の『珞琭子三命消息賦註』を読み、細微にわたって検討し た結論として、命理の祖は珞琭子以前にあり、と考えております。
 その後も、命理は進士(官吏登用試験に合格した人)や高級官吏、総理大臣級の人々によって、 徐々に高められて来たのです。現在も、古書として徐大升氏の『淵海子平』、劉伯温氏の『滴天髓』、 張神峯氏の『神峯通考・命理正宗』、萬育吾氏の『三命通會』、陳素庵氏の『命理約言』、沈孝瞻氏の 『子平眞詮』、任鐵樵氏の『滴天髓闡微』、著者不明の『造化元鑰』等々、多くの命書を手にすることが できるのです。しかし、これらの書もすべてがすべて良書とは言えないのは、命理の発展の過程からして やむを得ないことと言わざるを得ません。
 そうした優れた人々が試行錯誤を重ねながら、命理を学問として向上発展させて来た一方、生活のために、 いい加減な四柱推命によって、人を威したり、だましたりして、糊口の足しにしていた売卜者が多かった ことも事実です。庶民は困ったことがあっても、総理大臣に命運を看てもらうことなどできるわけはあり ませんので、巷間のそういう人達に頼らざるを得なかったのです。これが占い的四柱推命の始まりなのです。
 私が理論付けた「武田命理学」は、矛盾なき首尾一貫した理論体系からなる学問であり、 このように秩序づけられた命理学は、日本はもちろん、中国にさえなかったものであります。
 命理学は、この世に生まれた瞬間を原因として起こる、その人にかかわるすべての事柄を、過去・現在・ 将来にわたって正確に“知る”ことができるもので、生まれた瞬間の生年月日時が原因となり、その原因から、 結果としてのいろいろな事象を予知することができるのです。では、どのようなことがわかるかと言いますと、


(1)家庭環境について

  • 両親との縁の厚薄、変化。
  • 両親からの遺伝的要因。
  • 出生時の生家の財の多寡、
    その社会的地位の状態。
  • 遺産の多寡、遺業の有無・大小。
  • 兄弟姉妹のおよその多寡、その縁の厚薄。
  • 結婚の時期。
  • 配偶者との縁の良否。
  • 子女の有無、多寡、縁の厚薄。

(2)性格について

  • 性情形成過程と、その変化。
  • 役割性格の変化の過程。
  • 知能・才能・能力の如何。
  • 容姿・容貌、言語・言動。

(3)健康面について

  • 生まれてから死に至るまでの
    健康面の変化の過程。
  • 疾病の発生しやすい部位。
  • 五官の機能の良否。
  • 飲食に対する好き嫌い、嗜好。また、その年齢による変化。
  • 運動量の適不適。
  • 栄養のバランスの良否。
  • ホルモン系統の調和・不調和。
  • 発病時期とその部位。場合によっては、病名。
  • 寿命にかかわるような重大な疾患、あるいは事故の発生時期。

(4)職業・財について

  • 適性進路、適職の方向性。
  • 社会的地位の如何。
  • 財の多寡と、その変遷のありよう。

(5)その他

  • 一生の変化のよし悪し。
  • 細密な年、月の事象。

等々、といった、まことに多くの事柄を知ることができるのです。「武田命理学」は、他の科学と同様、 理論体系あるものですので、生年月日時が正確であれば、事実・事象は必ず一致するものです。もし事実・事象と 一致しないというようなことがありましたなら、それはその人の生年月日時が違っているか、あなたの見誤りか、 のいずれかなのです。熟達しますと、生年月日時のみで、本人に会うことなく、その人を生き生きとした人間像と して認識することも可能なのです。
 他のあらゆる科学と同様に、命理学の公理となるものは、

 “太陽と地球の相関関係における個人の対応である。”

と一言で言うことできます。そして、この公理から、大定理、中定理、小定理が導き出される ことになるのですが、その定理を導き出すところの理論的背景・根拠となるものは、陰陽五行哲学なのです。

(武田考玄著 『改訂 未来予知学としての 四柱推命学入門』より抜粋)

→四柱推命学詳義の案内